2006年2月 カムチャッカ厳冬の旅8

2月25日:波瀾万丈の幕開け〜ウラジオに到達せず


2/25(土)つづき
飛行機は時間通りに
ペトロパブロフスクカムチャツキーを離陸。
3列席の窓側だったので、機内食は遠慮して水だけ飲む。
3時間ほどでウラジオストック上空。
だが、なかなか着陸態勢に入らない。
外をみると下の方に雲がびっしり。
1時間以上旋回していた。

どうなることかと思ったが、だんだん下降に入った。
下降してきて町が近づいてくると、乗客の多数が携帯電話で話し始めた。
いや、ちょっと。だめなんじゃない。
電子機器の使用は。
スチュワーデスも注意しないし。
どうなってるんだ。

で、その会話の中からさかんに
「ハバロフスク」「ハバロフスク」という単語が聞こえる。
まさかね。
この飛行機はウラジオストックでしょ。
と思いつつ、降りられなかったのかなあ。
で、外を凝視していると空港のビルにくっきりハバロフスクの文字。
あー、やっぱり。
で、飛行機はゆるゆると停車。

乗客は、じわじわじわと動き始めている。 こっちは、何のことやら全く分からないぞ。 と、乗客の一人が英語でスチュワーデスに話しかけている。 むむ、と思って、聞き逃さないように聞き耳を立てる。 その横で、飛行中、ずーと携帯電話で遊んでいた 馬鹿兄ちゃんがでかい声で電話をしている。 もう、いい加減にしてくれ。でかい声出すなばか、 と思いながらスチュワーデスの英語の会話に聞き耳を立てる。 やはり天候が悪くハバロフスクに着陸したとのこと。 で、その英語圏の客が興奮しているのは、 彼ががその日のうちにウラジオストック、仁川、 シンガポールと飛ぶ予定だからだった。 ロシアでしかも雪の降る季節に そんなタイトなスケジュールを組むのが悪いよと思いながらも、 英語を話す唯一の仲間なので、一緒にいることにする。 彼が英語でまくし立てたおかげで、 空港在住の英語をしゃべる地上係員の人が来た。 彼はそうとうまくし立てて、ハバロフスクー仁川のチケットを手に入れ、 荷物を飛行機から取り出して、無事飛び立っていった。

その係の女性が今度は僕の方を心配してくれた。 彼女は、本当に親切で、 空港の館内放送で情報が流れるたびに僕の姿を探して、 いろいろ教えてくれた。 で、分かったことは今日、飛行機は飛ばないこと。 でで、そのうち、ウラジオストック航空がホテルを用意するとのことだった。 ででで、情報を聞き逃してはいけないと、窓口近くで荷物を抱えて、待機していた。 松本清張の「ゼロの焦点」をただただ読んだ。 おなかが空いたので、チョコレートと水を貪った。 6時間近くたった17時ころ人が流れ始めた。 これは何かあると思って、彼女を捜した。 彼女も僕をわざわざ捜しながら階段を上がっていった。 後を追いかけて、「なにか始まりましたね。」 と声をかけると、ホテルへ移動するとのこと。 ロシア人がめいっぱい乗っているマイクロバスへ一緒に行った。 これからホテルへ行く、その後一泊して、 明日の朝、再び空港へ来るとのことだった。 で、彼女とはお別れ。 彼女は僕のこの先をとても心配してくれて、 携帯電話の電話番号を教えてくれた。 なんと親切な人なんでしょう。 ちょっとすさみかけていた気持ちが持ち直してきた。

で、ロシア語しか飛び交わないバスでホテルへ。 インツーリストホテルへ行くのかな?と思っていたら、 そこを通り過ぎて、えらい寂れた地区へ。 そんなところは、地球の歩き方に乗っていない、 というか、歩き方に出ていその範囲からはみ出たところをバスは走っている。 20分ほどでぼろぼろの中国語の名前の付いたホテルへ到着。 どかどかと人が降りていく。 で、ついて行くと、なにやら係の人から説明が。 全然わからん。 隣にいたおばさんにロシア語で一生懸命明日、何時に出発ですか? と聞いても、英語は分からないから、みたいに手を振られてしまった。 こっちはロシア語でしゃべっているつもりなのに。 で、そのおばさんの息子さんが気づいて、明日8時に出発だよと教えてくれた。 でも空港の電光掲示板には7時と書いてあったんだけどなあと思いながら、 呆然としていると、別のおばさんが、 並んでチェックインしなさいよ(多分)教えてくれたので、列に並んだ。 受付はロシアの女性だったけど少し英語が話せた。 自分の番になったときに、 部屋割りを見ながら「中国人と一緒でいい?」と聞かれた。 さすがに身も知らぬ人と一緒はいやだ。 一人にしてくれといったら、露骨にいやな顔。 でもなんとか一人部屋を確保。 部屋に入り、一息ついて、さてどうしたもんかと思って、 ホテルの説明をみたら、ロシア語と中国語でしか書いていない。 まず、日本の旅行代理店に電話しようとおもったら、かけ方がよくわからない。 イリジウム電話を出して立ち上げてみた感度が悪い。 窓際に行ってふと窓を見たら、二重窓の一番外の窓はガラスなんだけど、 なんと二枚目はビニールじゃないか。 しかも一枚目は割れているし。 で、イリジウムは入らない。 しかたないので、夕食にしよう。 冷たいねーちゃんの受付にいって、食事はどこでできますかと聞いたら、 外に出たらレストランがあるから、ホテルの中にはないよ、との返事。 ホテルのお姉さんには罪はないんだけど、 航空会社も旅行会社も誰も、 言葉がほとんど分からずに困っている日本人がいること 気にしていないんだな、 と思った。 で、部屋に帰って外に食べに出てみよう、 でもその前にトイレ、とトイレのドアを開けたら、 シャワーがなくて、トイレと洗面所しかなく しかも、どれもが、とてつもなく汚かった。 反射的に思った。 もうここには居たくない、 もう、居られない。 汚い洗面所で、たばこの臭いが染みついている汚いシーツで寝てられるか。 順番を待っていても、どんどん横から入ってきて、 我が物顔ででかい声で馬鹿面で話している、 ロシア人の青二才たちと一緒に行動したくない。 もう、やだ。 電話をとって、前回泊まったことがあるホテルに予約を入れた。 荷物をまとめて、フロントに駆け込んで、 今日はもうここに泊まらないから、タクシーを呼んでくれと頼んだ。 フロントの人はさすがにあわてて、 この団体の係の人に連絡を取るから待ってくれといって電話をしだした。 自分が、わがままと贅沢を言っているのは分かっている。 カムチャッカから一緒の飛行機に乗ってきた多くの客は どこかで食事を摂りこのホテルで泊まるのだ。 シャワーも浴びず。文句も言わず。 ロシアに来てロシア語ができないのは僕だ。 現地の若者の横入りは現地の習慣だから腹を立ててもしょうがない。 分かっている。 でも、もう、ここに居たくなかった。 かなり時間がたって、係の男が女性を伴って現れた。 僕はかなり無表情な顔になっていたと思う。 女性が突然日本語で自己紹介を始めた。 で、どうしましたか?と。 誰も何も情報がない中でほとほといやになったので英語の通じるホテルに移ります。 もう、予約しました。と言った。 英語だと単語を知らないからストレートに気持ちを言えたかもしれないけど、 日本語だったので、おとなしめに訴えるだけになってしまった。 するとその女性は、 「あなたの気持ち分かります。予定外のところに連れてかれて、 日本語も英語もなくて不安だったでしょう。車を用意したので移動しましょう」 と言った。 その途端、僕は自分の行動が恥ずかしくなった。 突然、こちらにこなければならなくなった二人やホテルの人に申し訳なくなった。 二人に迷惑かけたくないので、自分でタクシーで移動します、と言った。 彼女は、もう車を用意してあるので、行きましょう。 と僕を車に乗せた。 ホテルへ向かう道中、彼女と話をした。 彼女はロシアで日本語を勉強したこと。 今年の初めに日本へ旅行に行ったこと、 などなどを話してくれた。 僕は彼女のような人がもし自分が住む町の駅にいたら、 助けてあげただろうか。

ホテルについたとき、 僕は彼女と係の男性にわがままを言ってすいませんと謝った。 彼女は 「謝る必要はありません。 ホテル代も日本で代理店に請求してください。 戻るかもしれません」と言った。 僕は、自分のわがままでしたことなので、 請求できませんと言った。彼女は不思議そうな顔をして僕を見ていた。 アメジストホテルは相変わらず素晴らしかった。 部屋は広く、お風呂とトイレも清潔で広い。 ロビーには用心棒が絶えず常駐していて、 受付のお姉さんも英語が堪能でわかりやすく親切だ。 僕は本当に贅沢になったもんだと自省した。 外に行く元気もなかったのでホテルのバーで食事をとった。 サラダと豚串(シャシュリック)とマッシュポテトとビール。 マッシュポテトは粉末ではなくジャガイモから作ってあってとても美味しかった。 お部屋に戻り、日本のテレビとオリンピックを見て風呂に入って寝た。 ほっとしたような、淋しいような夜だった。



一日目(ウラジオストクへ)へ

二日目その1へ(ウラジオの朝)へ

二日目その2へ(カムチャツカ到着)へ

三、四日目へ(温泉三昧)へ

五、六日目(オホーツク沿岸の街)へ

七、八日目(ロシアの男の休日)

九、十日目(最終日)

ウラジオに到達せず

ハバロフスクから日本へ


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